斉藤雅恵さんは松本市で長年訪問看護に携わってこられました。
エムテラスの医学生が斉藤さんにお話を伺いしました。

あやか

斉藤さんはどういう経緯で訪問看護を始められたんですか?

斉藤さん

私の出身は京都で、元々は小児科と内科の看護師をしていました。
松本にお嫁に来たのですが、子供たちが成長して手がかからなくなってきたので復職することにしたんですよ。
相澤病院の手術室や豊科の山田眼科で働いたのですが、その経験のなかで、家でちゃんとした生活ができていれば目の病気がこんなにひどくならなかったんじゃないかなあと思うことが多くて、在宅看護に関心を持つようになりました。

えり

きっかけは眼科だったんですね。

斉藤さん

山田先生にがおっしゃるには、目っていうのは脳血管に通じていて、生活習慣病にも全部繋がっているんだよ、と。

あやか

目の病気の原因としては糖尿病が多いのでしょうか?

斉藤さん

糖尿病もありますが、ものすごい近視の人が自分なりの考えで間違ったケアをしていて悪化したり、お子さんで乱視が原因なのに気づかれなくて不登校になったりすることもあったんですよ。

あやか

なるほど。家庭でのケアが重要なんですね。

斉藤さん

そうなんです。そんなことを考えていた時に、縁あって城西医療財団松本西訪問看護ステーションに就職しました。病院の系列の訪問看護ステーションですね。当時はまだ訪問看護ステーションは少なかったんですよ。介護保険で訪問看護がスタートする頃ですね。

えり

最初は小児が専門というわけではなかったんですか?

斉藤さん

成人の方が全然多かったですね。
50人以上の成人に対して、小児は5人くらいでした。
小児はほぼ私が担当していました。

えり

小児の訪問看護に取り組むようになるきっかけがあったんでしょうか?

斉藤さん

長野県立こども病院ができて、県内の多くの重症のこどもが集まるようになりました。その中で次第に在宅移行が問題になり、在宅支援のセクションが立ち上がりました。
初めて担当させていただいたケースですが、在宅看護の受け入れに前向きでないお母さんがいて、私がいたステーションに相談があったんです。そこで小児の看護経験のある私が担当することになりました。
その方は脳炎を契機に脳性麻痺になったお子さんで、お母さんが受容しきれていない段階のようでした。受容できていないのだろうということに気づくのに1年、お気持ちを引き出すのに1年かかりました。そのお母さんとは今でもお付き合いがあります。

あやか

受け入れには時間がかかるものなんですね・・・

斉藤さん

元気な頃のお子さんをやっぱり夢見ちゃうんですよね。だけどもうそこには戻れない・・・。大きな障がいを負っても、残されたもの(機能)もたくさんあるはずなのですが、なかなかそこに目がいかない。支援学校にもなかなか足が向かない状況でしたね。

あやか

そのお子様は学校にも通われていたんですね。

齋藤さん

松本養護学校です。今は大きくなっているけど当時は本当に小さな学校でね。
そのお子さんには経管栄養が必要で、家の人が学校にいられない場合は、私のような訪問看護師が注入しに行っていたんですよ。今では学校看護師さんがいますけどね。

あやか

それは大変ですね。

齋藤さん

そうなんですよ。
そこで、学校に看護師が常駐していれば、ご家族や訪問看護師が注入のたびに学校に来なくてもいいし、先生方も教育に専念できるよねということで、医ケア児のご家族や支援学校の先生たちが学校看護師の配置に関する要望を訴えるようになりました。

あやか

なるほどー。

齋藤さん

今もう30歳くらいになっているお子様のご家族や当時の学校の先生たちが署名活動をして、県庁にまで陳情に行ったりして、徐々に今の制度ができてきました。そのことは知っておいてもらいたいですね。